「炭素・窒素安定同位体比からみた大西洋表層における一次生産過程について」
三野 義尚
海洋性有機物の同位体比は、その有機物が生成された時の表層環境や藻類の生理状態に関する情報を持つと考えられるため、同位体解析は海洋生産性を推定するための新しい研究手段として期待されている。本研究では、大西洋を南北50˚ に渡って海洋観測を実施し、表層懸濁態有機物の炭素・窒素安定同位体比(d13Csus、d15Nsus)の空間変化を追跡することにより、各々の変動特性について検討を行った。特に、栄養塩量や生物量が乏しく人為的に環境条件を再現するのが困難である為理解が不十分であった、熱帯・亜熱帯海域(45˚N~40˚S)の表層における藻類の一次生産過程とd13Csus、d15Nsusとの関係について解析し、以下の知見が得られた。
表層水中の[NO3-]がほぼ枯渇している熱帯・亜熱帯域において、d15Nsus値は-0.8 ‰ から+5.4 ‰まで変化し、亜表層付近から有光層へのNO3-の供給速度を指標するNO3-躍層深度(DNO3)と負の線形相関を示した。この関係は、DNO3が浅い中程度栄養塩環境では下層から供給されたNO3-の利用度が大きいためd15Nsusは比較的高い値を示し、逆に深いDNO3で特徴づけられる貧栄養環境は再生栄養塩であるNH4+の比較的低いd15N値が主に懸濁態有機窒素の同位体比に反映されることを示していた。観測されたd15Nsus-DNO3関係を、植物プランクトンによる窒素の取り込みに関する同位体―マスバランス式(f-ratioを用いて表現される)を用いてモデル化することにより、d15Nsusが有光層内の窒素循環の海域差を反映しているという結論を導いた。これは、NO3-の部分的消費に伴う分別効果に支配される「新生産性」有機物のd15N値の変化のみに着目して行われてきたd15N解析に対し、「再生生産性」有機物の割合やそのd15N値の変化が現場海洋で観測されるd15Nsusの変動に対し大きく寄与するという新しい見解を指摘するものである。又、d15Nsusと水中積算した一次生産速度との間に正の相関が存在することから、表層懸濁態有機物全体のd15N値が、現場環境における一次生産の推定に有用であることを示した。
熱帯・亜熱帯大西洋においてd13Csusは3‰以上の緯度変化を示したが、これまで報告されているようなd13Csus-[CO2aq]関係では説明できなかった。これは同海域表層に生息する藻類の13C分別効果(ep)の変化が[CO2aq]に依存しないことに起因していた。藻類による無機炭素の取り込みに関してCO2aq拡散輸送、HCO3-能動輸送をそれぞれ仮定した2つのモデルを当てはめることにより、観測されたepの変動特性について検討した結果、広域に渡って優占していたラン藻Prochlorococcusの強光適応種(HL-Prochlorococcus)とそれ以外の真核藻類が異なった無機炭素取り込みメカニズムを駆動しているため、両藻類グループによる13C分別効果に違いが生じ、各々d13C値の異なった有機物を生成していることが推察された。すなわち、このd13C値の差と両者の存在率によってd13Csus値が規定されることになる。本解析では、真核藻類が炭素基質としてCO2aqを利用するのに対し、HL-ProchlorococcusはHCO3-を極めて大きい速度で能動的に取り込み、その結果、同種の13C分別効果がほぼ一定(=16‰)であることを導いた。この高いHCO3-取り込み活性は、N基質としてNH4+しか利用できない特性を持つHL-Prochlorococcusの熱帯・亜熱帯海域での生態戦略として重要な役割を担うと推察され、更にこの優占種がHCO3-を利用することから、同海域表層の生産性に対して人類活動に伴う大気pCO2の増加が与える影響は小さいと考えられた。一方、真核藻類による13C分別効果は、[CO2aq]の変化が小さい同海域では主に比成長速度(m)の変化に依存するため、結果的に同種が生成する有機物のd13C値はmと正の相関関係を示した。この真核藻類起源のd13C値は選択的に沈降粒子に記録されると予想できるため、セジメント・トラップによって捕集された試料のd13C値を解析することにより、海洋表層の大型藻類の生理状態を推定できると予想される。
本解析は、海洋全体の約半分を占める熱帯・亜熱帯域表層に存在する懸濁態有機物のd15N、d13C値が、現場海洋の生産性を評価する上で有益な情報をもたらすことを示した。しかし一方で、広く優占していたラン藻HL-Prochlorococcusが、他の真核藻類とは異なる無機窒素・炭素源の利用メカニズムを持ち、この生理学的特徴の違いが、両藻類グループの炭素・窒素同位体比の変動特性に反映していることが推察された。このため、今後、有機物のd15N、d13C値から、各藻類の生理状態、もしくはそれを規定すると思われる環境因子を推定するためには、藻類種組成またはその変動メカニズムを考慮に入れた解析が不可欠であると考えられた。